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親鸞の和讃に親しむ(その114) ブログトップ

五濁増のしるしには [親鸞の和讃に親しむ(その114)]

(4)五濁増のしるしには

五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀(げぎ)は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬(ききょう)せり(第100首)

濁りに満ちた世のしるし、僧侶も俗もみなともに、そとは仏教よそおって、うちは外道につかえてる

 

かなしきかなや道俗の 良時・吉日(きちにち)えらばしめ 天神・地祇(じぎ)をあがめつつ 卜占祭祀(ぼくせんさいし)をつとめとす(第101首)

かなしいことに誰もみな 良き時・良き日えらんでは 天地の神をあがめつつ 祀り占いかかさない

同じ悲歎述懐讃と言っても、ここまでの和讃とは趣が異なります。これまでは親鸞自身の悲歎でしたが、この二首は世間の道俗のありさまが悲歎されています。そしてそれに対する厳しい批判になっています。第100首は、出家も在家も同じように、外から見れば仏教徒のような姿をしていながら(袈裟を着たり、手に数珠をもったりしながら)、心の中では外道に仕えているではないかという厳しい指摘です。ここで外道といいますのは、日本に古くから伝わる呪術信仰(神道と呼ばれます)を指していることは次の第101首から明らかで、仏教徒でありながら「まじない(呪術)」にうつつを抜かしているありようを指弾しています。

「目覚め」の宗教であるはずの仏教が「まじない」の怪しげな宗教になってしまっているということです。さてしかし「目覚め」と「まじない」とでは何がどう違うのか、これはよくよく考えてみなければなりません。

「まじない」とは神仏の不可思議な力を借りて災いや病気を避けようとする(あるいはそれを起こそうとする)ことですが、弥陀の本願力というのも仏の不可思議な力ですから、どうかするとその違いが見えなくなってしまいます。たとえば『歎異抄』第3章にはこうあります、「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころのかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」と。ここに「他力をたのむ」と言われているのは、一見したところ、神仏の力をたのんで幸せをえようとするのと同じようです。

しかし両者はまったく違います。この「他力をたのむ」は、気づいてみると、もうすでに本願他力のなかにいるということです。「これから」本願他力をたのみとして幸せをえようとするのではありません、「もうすでに」本願他力に生かされていることに気づいているのです。「これから」救われたいと思っているのではありません、「もうすでに」救われていることを喜んでいるのです。そのとき「ああ、ありがたい(あること難し)」という思いが「南無阿弥陀仏」の声となって口をついて出るのです。


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