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時は流れる [「親鸞とともに」その120]

(4)時は流れる

もう一度、時間は一本の線として描かれ、その線の上に過去、現在、未来が並べられ、過去から現在、そして未来へと時間が進んでいくというイメージに戻りましょう。われらは、昨日があり、それが終わって今日が来て、そしてまたその後に明日が来ると思い込んでいます。「過去」とは「過ぎ去る」ということで、これは、もはや時間が過ぎ去ってしまったという感覚にもとづいています。それに対して「未来」は「未だ来たらず」で、これも、まだ来ていないが、これから新しい時間が来るに違いないという感覚がもとにあります。こんなふうに時は流れ去るものであり、またこれから流れ来るものであると思われています。さてこのように時は流れるのでしょうか、それとも先ほど見ましたように時は流れないのでしょうか。

これは「自力と他力」の問題に関係します。先回りして結論を言っておきますと、「わたしのいのち」をひたすら自力で生きているとき、時は流れています。しかし「ほとけのいのち」に生かされていることに気づいたとき、時は流れていません。

まずはひたすら自力で生きている場合から考えましょう。「ひたすら」といいますのは、他力すなわち「ほとけのいのち」に気づいていないということで、「わたしのいのち」をただ「わたしの力」で生きていると思っているということです。「わたしの力」で生きるためにはさまざまなことをしなければならず、まず「あることをしよう」と企画します。そしてそのためには何が必要かを算段し、次にそれを実行に移します。かくしてその成果があらわれる、というように、時間の流れにそってものごとが順々に進んでいきます。この手順を守らなければ何ごとも成功しません。つまり自力で生きるということは、時間の流れを前提し、それに従うということに他なりません。ここにおいては、まず原因となることがあり、しかるのちにその結果が生じるという図式が成り立っています。

親鸞は自力で生きるとは、このように時間の秩序に従うことであるとして、それを「たてさま」と表現します。先ほどは時間軸を横に書きましたが、それを竪にして、その下から上へと一歩一歩昇っていくというイメージです。


タグ:親鸞を読む
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