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欠如を感じる [『唯信鈔文意』を読む(その32)]

(3)欠如を感じる

 『饗宴』のなかで、アリストパネスはこう言います、もともと人間は男と女が背中合わせにくっついた球体のアンドロギュロスであった。4本の手と4本の足をもって勝手なことを仕出かすので、怒った神はそれをスパッと半分に切り離し、その結果、いまの男と女になったというのです。
 男が女を求め、女は男を求めてさ迷い歩くのは、もとの球体のアンドロギュロスに戻ろうとしているのであって、愛の切なさはここからくると。
 この物語は、人間には欠如があり、それが埋められるまでは完全になれないということを巧みに表現していますが、でも欠如があれば必ず埋められることを保証してくれるわけではありません。欠如があるのに、そしてそれを誰かに埋めて欲しいのに、いつまでもそのままという可能性はいくらでもあります。
 現に、よき伴侶を求め続けているのに見つからないという嘆きはいたるところで聞かれます。
 さてしかし本願はいつでもどこでも、すぐそこにあるのです。ただそれに気づくだけでいい。これが本願というものです。本願が本願である以上、そうでなければなりません。としますと欠如を感じている人には必ず届くのではないでしょうか。欠如を感じていない人は、すぐそばにあっても気づかないまま通り過ぎることはあるでしょうが、欠如を感じている人は気づかないはずがありません。水が干上がってバタバタしている魚が、すぐ傍にある水流に気づくように。
 ところでいまの場合の欠如とはどういうことでしょう。この欠如を感じる人とはどのような人でしょうか。
 

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