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『観無量寿経』精読(その90) ブログトップ

しるし [『観無量寿経』精読(その90)]

(11)しるし

 さてしかし、これからなそうとすることについては、それが罪であれば抑止されるということ。
 それが罪であるかどうかはどうして分かるのかという問いがおこりますが、親鸞はこんなふうに言っています、「仏の御名をもきき念仏を申してひさしくなりておはしまさんひとびとは、後世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ」(『末燈鈔』第20通)。ここに「しるし」という印象的なことばが出てきますが、本願に遇うことができた人には、その人にしか分からない「しるし」が刻印されるということでしょう。
 本願に遇った人とは煩悩に遇った人です。何度も述べてきましたように、法の深信と機の深信はひとつであり、「ああ、これが本願だ」と気づいた人は、同時に「ああ、これが煩悩だ」と気づいていますから、自分のなそうとしていることが罪であるかどうかを感じ取っているはずです。で、これは罪であると感じられたときは、「この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめす」と言うのです。それが本願に遇った人の「しるし」であると。罪はおのずから抑止されるのです。
 さあしかし抑止されていると感じても、してしまうことはいくらでもあります。「ああ、これは煩悩だ」と感じながら、煩悩のままにふるまってしまう。そのとき、そのような宿業にあったという他ありません。そしてそれが宿業によるものである以上、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪」もそのまま赦されるのです。かくして、これからなされる悪は抑止されますが、すでになされてしまった悪は赦されるということになります。「悪はそのまま赦されることはないが、そのまま赦される」というのはどこから見ても矛盾ですが、前者は事前のことであり、後者は事後のことであるとすることで了解できます。

                (第7回 完)

タグ:親鸞を読む
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