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この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり [親鸞の手紙を読む(その50)]

(9)この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり

 ところで、親鸞は「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」と言った直後に「この道理をこころへつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり」と注意しています。そしてその理由を「つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし」と述べますが、これはどういうことでしょう、少し思いを廻らしてみましょう。
 思い出すのは『歎異抄』第12章です。当時、「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよし(経典や論釈を読んで教えをしっかり学ぼうとしないようなものは往生できません)」などと言う輩がいたようですが、唯円はとんでもないことだと厳しく批判しています。学問は何のためにあるのか、ということです。「他力真実のむねをあかせる聖教は、本願を信じ念仏をまうさば仏になる、そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや(他力の真実について述べている大切な書物は、本願を信じて念仏すれば仏になるということを明らかにしているのであって、それ以外の学問は往生にとってまったく必要ありません)」と。
 この指摘をいまの親鸞のことばに重ね合わせますと、「つねに自然をさた」するというのは、本願他力とは何かを経釈にたずねて学問するということです。それが何のために必要かと言えば、本願他力とは何かについて迷いがなくなるように、ということであり、その迷いがなくなったひとにはもはや学問など必要ないと言わなければなりません。「このことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべき」ですが、もう迷いのないひとにどうして学問が必要でしょうか、ということです。
 親鸞は言います、「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」という「道理をこころへつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり」と。本願他力の道理をこころえるためにこそ学問は必要であって、こころえてしまったらもう「沙汰すべきにはあらざるなり」というのです。いつまでも本願他力について沙汰するのは、まだ本願他力に遇っていないということに他なりません。

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