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「信巻を読む(2)」その124 ブログトップ

提婆達多という人 [「信巻を読む(2)」その124]

第11回 大悲の弘誓を憑(たの)み、利他の信海に帰す

(1)提婆達多という悪人

阿闍世の救済の物語は前回のところで結末を迎えたように思えましたが、まだその続編があります。

またのたまはく、「善男子、羅閲祇(らえつぎ、ラージャグリハの音訳、王舎城のこと)の王頻婆沙羅(びんばしゃら)、その王の太子、なづけて善見(阿闍世のこと)といふ。業因縁(業縁、宿業のこと)のゆゑに悪逆の心を生じて、その父を害せんとするに、しかるに便りを得ず。その時に、悪人提婆達多(だいばだった)、また過去の業因縁によるがゆゑに、またわが所において不善の心を生じて(わたし釈迦によからぬ思いを抱いて)、われを害せんとす。すなはち五通(五神通、天眼通・天耳通・宿命通・他心通・神足通)を修して、久しからずして善見太子とともに親厚たること(親しくなること)を獲得(ぎゃくとく)せり。

太子のためのゆゑに、種々の神通の事を現作(げんさ)す。門にあらざるより出でて門よりして入りて、門よりして出でて門にあらざるよりして入る。ある時は象・馬(め)・牛(ご)・羊(よう)・男(なん)・女(にょ)の身を示現す。善見太子見をはりて、すなはち愛心・喜心・敬信(きょうしん)の心を生ず。これを本とするがゆゑに、種々の供養の具を厳設(ごんせつ)しこれを供養す。またまうしてまうさく、〈大師聖人(ここでは阿闍世が提婆達多のことを敬ってそう呼ぶ)、われいま曼陀羅華(まんだらけ、天上の華)を見んと欲(おも)ふ〉と。時に提婆達多、すなはち往きて三十三天(忉利天)に至りて、かの天人に従ひてこれを求索(ぐしゃく)するに、その福尽くるがゆゑにすべて与ふるものなし。すでに華を得ず。この思惟(しゆい)をなさく、〈曼陀羅樹は我・我所なし(我とか我がものということがない)、もしみづから取らんにまさになんの罪かあるべき〉と。すなはち前(すす)んで取らんとするに、すなはち神通を失へり。還りて己身を見れば(ふと気がついてみると)、王舎城にあり。心に慚愧を生じ、また善見太子を見ることあたはず(恥ずかしくて阿闍世に会うことができなかった)。


タグ:親鸞を読む
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