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慙愧 [「信巻を読む(2)」その99]

(2)慚愧

耆婆のことばが終わった後、不思議な声が聞こえてきます。

〈大王、一逆を作れば、すなはちつぶさにかのくごときの一罪を受く。もし二逆罪を造らば、すなはち二倍ならん。五逆つぶさならば、罪もまた五倍ならん。大王いまさだめて知んぬ、王の悪業かならずまぬかるることを得じ。やや、願はくは大王、すみやかに仏のみもとに往(もう)づべし。仏世尊を除きて余は、よくたすくることなけん。われいまなんぢをあはれむがゆゑに、あひ勧めて導くなり〉と。その時に、大王、この語を聞きをはりて、心に怖懼(ふく、おそれ)を懐けり。身を挙げて戦慄す。五体掉動(じょうどう)して芭蕉樹のごとし。仰ぎて答へていはく、〈天にこれたれとかせん、色像を現ぜずしてただこの声のみあることは〉と。〈大王、われはこれなんぢが父頻婆娑羅(びんばしゃら)なり。なんぢいままさに耆婆の所説に随ふべし。邪見六臣の言に随ふことなかれ〉と。時に聞きをはりて悶絶躄地(びゃくじ、腰がぬけて地に崩れる)す。身の瘡、増劇(ぞうぎゃく)して臭穢(しゅうえ)なること、前よりもまされり。もつて冷薬をして塗り、瘡を治療すといへども、瘡あつかはし(蒸れる)。毒熱ただ増せども損ずることなし」と。以上略出

一 大臣、名づけて月称といふ          富蘭那と名づく

二 蔵徳                    末伽梨句舎梨子と名づく

三 一の臣あり、名づけて実徳といふ       闍耶毘羅胝子と名づく

四 一の臣あり、悉知義と名づく         阿耆多翅舎欽婆羅と名づく

五 大臣、名づけて吉徳といふ          迦羅鳩駄迦旃延

六 無所畏                   尼乾陀若提子と名づく

ここまでで第一幕が閉じられます。六人の大臣が次々と登場し、己の罪の重さにおののく阿闍世を慰め、「後悔なさいますな、後悔することに何の意味もありません」と説くのに対して、最後に登場する耆婆は阿闍世が「心に重悔を生じて慚愧を懐」いていることを「善いかな善いかな」と褒め、慚愧こそわれらに救いを与えると説くのです。前に後悔に二種類あると言いました、ある行いにより悪い結果を招いたと後悔することと、その行い自体を後悔することです。後者の後悔が慚愧ですが、それがわれらに救いをもたらすとはどういうことかを考えておきたいと思います。


タグ:親鸞を読む
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