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吾がもてる貧しきものの卑しさを [『歎異抄』ふたたび(その82)]

(3)吾がもてる貧しきものの卑しさを


 自分のこころのうちに醜いものがあるなと気づいても、それをあえて口にすることはないのが普通でしょう。そんなことをわざわざ人前にさらすものではないと思い、なにくわぬ顔をして過ごすものです。いつ頃からでしょう、自虐ということばがよくつかわれるようになりました。日本人の醜いところをわざわざさらけ出すことはないじゃないかという否定的なニュアンスで言われます。とりわけ戦時中のさまざまなことがら、たとえば南京大虐殺や慰安婦問題を取り上げて、日本人を貶めるのは自虐趣味ではないかと否定的に言われるようになりました。


なるほど自分の醜いところを大声で人前に触れまわることはないでしょう。それは悪趣味だと言わなければなりません。でも、それをあえて言わざるをえなくなることがあるのではないでしょうか。土屋文明の歌集『放水路』に「或る友を思ふ」と題して、「ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交(まじわり)絶てり」「吾がもてる貧しきものの卑しさを是の人に見て堪えがたかりき」「かにかくにその日に足れる今となり君をしばしば吾思ふなり」「電車より街上の姿を君と見しが近づく人は君にあらざりき」という一連の歌があります。彼は己のなかの卑しさを感じていながら、それを口にすることはありませんでしたが、その卑しさ故に交わりを絶った友人を忘れることができず、ついにそれを歌にして表出せざるをえなくなったのです。


こころのうちに押し隠していることができず、人前に表出せざるをえなくなるのはどんなときでしょう。それは、どこかから「そんなことでいいのか」という声が聞こえてくるときです。「自分のなかの卑しいこころに気づいていながら、なにくわぬ顔をして生きていていいのか、そんなことで恥ずかしくないのか」という声(これは「いのちのこえ」というしかありません)に突き上げられるように、「ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交絶てり」「吾がもてる貧しきものの卑しさを是の人に見て堪えがたかりき」と告白せざるをえなくなるのです。





タグ:親鸞を読む
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