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悪は往生のさはりたるべしとにはあらず [『歎異抄』ふたたび(その104)]

(5)悪は往生のさはりたるべしとにはあらず


 第2段に進みます。


そのかみ邪見におちたるひとあつて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこえ候ひしとき、御消息に、「薬あればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。まつたく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられ候へ。さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられ候はじものを。また、「海・河に網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただおなじことなり」と。


 前半でいわゆる本願ぼこりを邪見として否定していますが、それは「わざとこのみて悪をつくりて、(それを)往生の業とすべし」という謬見であり、親鸞が「薬あればとて、毒をこのむべからず」と言っているのは、この謬見をたしなめているのだと言います。それは決して「悪は往生のさわりたるべし」と言っているのではないというのが唯円の論点です。「悪をもおそるべからず」と「薬あればとて、毒をこのむべからず」との微妙な関係についてはすでにふれました(2)。


後半で、もし悪が往生のさわりとなるとしたら、「われらいかでか生死をはなるべきや」と唯円は言います。われらの如き「あさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ」往生できるのであり、だからこそ本願をほこらしく思うことができるのだというのです。しかし「かかるあさましき身」だからと言って、その業縁がそなわっていなければ、悪業をなそうとしてもなせるものではありません、とつけ加えています。本願に遇うことができたのも、その業縁があったのであり、悪業をなすのも、その業縁のなせるわざだということです。





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