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身と土 [「親鸞とともに」その41]

(2)身と土

ぼくと妻は、どちらの故郷からも離れた場所で暮らしています。デラシネ(根なし草)です。それにはさまざまな事情があるのですが、一つには故郷のしがらみから離れたいという思いがありました。故郷と距離を置いて生活することで、そこに多少の寂しさがあるとしても、それよりも自由に暮らすことを選んだと言えます。ところが年老いてきた妻がしきりに寂しいと言うようになりました。急を要するようなとき(大病や死に見舞われたとき)、頼れる人が一人もいないと言うのです。もちろん長年住むことで知り合いもできますし、親しい友人もいるのですが、やはり身内のようなわけにはいかないということです。

このようなことから考えますと、われらが生きる土とは、われらの身を支える土台であり、そこから遊離していると感じるときに寂しさや孤独を味わうことになると言えます。デラシネと言いましたが、それは「根が引き抜かれている」ということで、身と土が離れていることです。さてここで考えなければならないのは、先ほど言いましたように、われらは身ひとつで生きることはできず、そこに土がなければならないのに、どうして身と土が離れるようになるのかということです。答えは明らかで、われら自身がわが身をその土から切り離しているのです。いや、こう言うべきでしょう、われらはわが身が生きる上で役に立つ土を切り取っていると。「この土は善し」、「この土は悪し」と分別して、善き土を選びとり、悪き土を選びすてているということです。

われらは身が与えられるとともに、土も与えられています。われらがこの世に生まれてくるときに、そこにすでに土があり、だからこそその上で生きていくことができるのです。「世界内存在」(ハイデッガー)ということばはそれを表しています。われらは真空のなかに生まれてくるのではなく、すでに存在する世界のなかに生まれてくるのであり、その内に包まれて生まれてくるのです。ところがわれらは自身(身)を世界(土)から切り離して生きるようになる、ここに孤独の問題の根源があるのではないでしょうか。


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