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至心は、すなはちこれ真実誠種の心 [『教行信証』「信巻」を読む(その94)]

(11)至心は、すなはちこれ真実誠種の心


字訓釈のつづきです。


あきらかに知んぬ、「至心」は、すなはちこれ真実誠種(しんじつじょうしゅ、さとりの種となる)の心なるがゆゑに、疑蓋(ぎがい)まじはることなきなり。「信楽」は、すなはちこれ真実誠満(しんじつじょうまん、まことに満ちた)の心なり、極成用重(ごくじょうゆうじゅう、本願を信じ重んじる)の心なり、審験宣忠(しんげんせんちゅう、ふたごころなく信じる)の心なり、欲願愛悦(よくがんあいえつ、本願を悦び往生を願う)の心なり、歓喜賀慶(かんぎがきょう、信心の喜びがあふれた)の心なるがゆゑに、疑蓋まじはることなきなり。「欲生」は、すなはちこれ願楽覚知(がんぎょうかくち、願えば必ず仏になれると覚る)の心なり、成作為興(じょうさいこう、仏となって衆生を救う)の心なり、大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋まじはることなきなり。いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮まじはることなし、正直の心にして邪偽まじはることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑(けんぞう)なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり。一心すなはちこれ真実信心なり。このゆゑに論主はじめに「一心」といへるなりと、知るべし。


「至心」は字訓釈から浮かび上がった文字を四つ組み合わせて「真実誠種」の心とされ、同様に「信楽」は「真実誠満」の心、「極成用重」の心、「審験宣忠」の心、「欲願愛悦」の心、「歓喜賀慶」の心とされ、「欲生」は「願楽覚知」の心、「成作為興」の心とされます(最後の「大悲回向」の心は字訓釈とは別に付け加えられたものです)。「至心」についてはすでに触れましたので「信楽」をみますと、「真実誠満」の心は、「至心」の「真実誠種」とほぼ同じ意味で、次の「極成用重」の心は、如来からやってきた本願を重く受け止めるということでしょう。そして「審験宣忠」の心が分かりにくいですが、つまびらかに(審)明らかにされた(験)本願の仰せ(宣)を二心なく(忠)受け入れる心と理解できます。さらに「欲願愛悦」の心は、本願を悦び往生を願う心で、最後の「歓喜賀慶」の心もかならず悟りに至ると歓ぶ心です。「欲生」をみますと、「願楽覚知」の心はすぐ前の「歓喜賀慶」の心と重なり、願えばかならず仏になれると覚知する心ですが、「成作為興」の心というのが少し分かりにくい。おそらく願いが成就して往生できれば(成作)、大悲の行を興すことができる(為興)ということでしょう。往相はそのまま還相であるということです。





タグ:親鸞を読む
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