SSブログ
親鸞の和讃に親しむ(その17) ブログトップ

弥陀成仏のこのかたは [親鸞の和讃に親しむ(その17)]

7.弥陀成仏のこのかたは

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど 塵点久遠劫(じんでんくおんごう)よりも ひさしき仏  とみえたまふ(第55首)

弥陀成仏のときからは、十劫たつといわれるが、実は久遠のむかしより、おわしまします仏なり

第3首に「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたれども」とありましたが、ここでは「塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ」と詠われます。大経に、法蔵菩薩の四十八願が成就して、法蔵菩薩が阿弥陀仏となられてから「おほよそ十劫を経たまへり」と説かれているのを受けて、第3首がつくられているのですが、ここでは阿弥陀仏に「はじめ」はないと言われます。われらは何ごとにも「はじめ」があると(したがって「おわり」もあると)思いますが、はたしてそうでしょうか。そもそも縁起の理法によりますと、あらゆるものは互いに他とつながりあって存在しているのですから(「これあるによりてかれあり、これ生ずるによりてかれ生ず」)、あるものがあるとき突然「はじまる」ことはありません。何ものかが突然「はじまる」ということは、それがあるときひょいと世界に登場するということですが、それは他のものとのつながりがなく突如あらわれるということに他なりません。

われらがものごとに「はじめ」があるとするのは、縦横無尽のつながりのなかのどこかを便宜上「はじめ」とみなしているにすぎません。それが便宜上のことであるのは、たとえば一日の「はじめ」が午前0時のときもあり、あるいは夜明けのときもありといろいろであることから明らかでしょう。阿弥陀仏とは「無量のいのち(アミターユス)」で、もとより「はじめ」はなく永遠の存在ですが、『無量寿経』はそれに「十劫のむかし」という便宜上の「はじめ」を与えているだけのことです。そして、さらに言えば、阿弥陀仏もその本願も、われらがそれに気づかなければどこにも存在しません。その意味では、阿弥陀仏とその本願はわれらがそれに気づいた「いま」はじまります。永遠はそれに気づいた「いま」はじまると言うことができます。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の和讃に親しむ(その17) ブログトップ