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真実信心うるゆゑに [親鸞の和讃に親しむ(その91)]

第10回 正像末和讃(2)

(1)真実信心うるゆゑに(三時讃のつづき)

真実信心うるゆゑに すなはち定聚(じょうじゅ、正定聚)にいりぬれば 補処(ふしょ、次の世に仏処を補う地位)の弥勒におなじくて 無上覚をさとるなり(第28首)

真実の信えたときに、正定聚につくからは、補処の弥勒とおなじにて、無上覚をばさとるなり。

信心を得た人は「弥勒におなじ」と詠われます。親鸞は、その一方で信心の人は「ほとけとひとし」と言い、「おなじ」と「ひとし」をきっちり使い分けています。弥勒とは「かならず仏となるべき身」(正定聚であり、また一生補処)であるという点で「おなじ」であるのに対して、仏とは、未だ仏ではありませんから「おなじ」とは言えませんが、でもかならず仏になるのですから、もう仏と「ひとし」いと言うのです。弥勒は五十六億七千万年(何という数字でしょう)の後に仏になることが定まっていますが、そのように信心の人もまたいずれ「かならず仏となる」ことが定まっているのですから、「仏とひとし」と言われます。これは先の和讃(第23首)で「煩悩・菩提一味なり」と詠われたのと同じ事態を指しています。煩悩をもちながら「菩提と一味」であるということは、煩悩具足のままで「仏とひとし」ということです。しかし煩悩具足の凡夫が「仏とひとし」などというのは途方もないことです。これをどう理解すべきでしょう。

すでに述べましたように、本願に遇うことで煩悩を煩悩と気づかせてもらったということは、煩悩の外部すなわち菩提があることに気づいたということです。煩悩を煩悩と気づかないままでしたら、それに外部があるなどと思うことなく、いつまでも煩悩のなかに閉ざされたままです。それは闇を闇と気づきませんと(たとえば生まれてこのかたずっと光の差さない深海にいる魚のように)、その世界に外部があるとはつゆ思わず、これが唯一の世界だと思って一生を過ごすのと同じです。ところがあるとき「これまで煩悩のなかに閉ざされて生きてきたのか」と気づかされますと、「ああ、これには外部があるのだ」と思い至ります。もちろん、そう思ったからといって、その外部に出られるわけではなく、依然として煩悩の内部にいるのですが、でもその外部があり、このいのちが終われば外部に出ることができると気づくだけで、もうすでにその外部に出たに等しい解放感をえることができます。これが「仏とひとし」ということに他なりません。


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