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第12通本文 [親鸞の手紙を読む(その69)]

(8)第12通本文

 『末燈鈔』第12通も一緒に読んでおきましょう。第11通と同じ趣旨の手紙です。

 尋ね仰せられ候ふ念仏の不審のこと。念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
 この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。あなかしこあなかしこ。
  七月十三日                            親鸞
 有阿弥陀仏 御返事

 (現代語訳) お尋ねの念仏についてのご不審について。念仏往生と信じる人は辺地へ往生すると嫌われるだろうと言われているようですが、まったく理解できないことです。どうしてかと言いますと、弥陀の本願と申しますのは、名号を称えるものを極楽へ迎えようと誓ってくださったのですから、それを深く信じて称えるのがよろしいのです。信心があっても、名号を称えないのでは詮無いことです。また、一心に名号を称えても、信心が浅ければ往生するのは難しいでしょう。ですから、念仏往生を深く信じて、しかも名号を称えれば、疑いなく真実の浄土へ往生できるのです。結局のところ、名号を称えると言いましても、他力本願を信じなければ辺地への往生に留まるでしょう。本願他力を深く信じる人は、どうして辺地への往生などということになるでしょう。この辺りをよくよくお心得の上念仏なさるべきです。
 この身はもう年が極まり、まちがいなく先に往生するでしょうから、浄土で必ずお待ちしましょう。謹言。

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