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本願の光明のなかを歩む [『歎異抄』ふたたび(その73)]

(3)本願の光明のなかを歩む

 こちらに凡夫の闇の世界があり、むこうに仏の光の世界があるのではありません。凡夫の闇の世界がそのままで仏の光の世界です。
 われらは「惑染の凡夫」であるというのは、すでにひとつの気づきであり、そしてそれは、われらは闇(無明)のなかにいるという気づきに他なりません。この気づきを善導は次のように表現しました、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう、はるかな昔)よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなしと信ず」(『観経疏』「散善義」)と。これを後世、機の深信と呼ぶようになりますが、この気づきはおのずからもうひとつの気づきを伴っています、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず」(同)と。これは法の深信と呼ばれますが、機の深信が闇の気づきであるのに対して、法の深信は光の気づき、本願の光明の気づきであり、この二つは二つにして一つです。
 われらは「惑染の凡夫」であるという気づきにおいて、「惑染の凡夫」のまま、もうすでに「本願の光明」のなかを歩んでいるのです。
 これが「無礙の一道」ですが、「無礙の一道」ということは、そこを行くのに何の障碍もないということです。われらが人生を歩む上でさまざまな障碍があります。釈迦はその代表的なものとして生老病死を上げましたが、生(これは生きることではなく、生まれることです)という障碍は記憶にありませんから除くとしまして、老いること、それに伴い病むこと、そして死ぬことの障碍(死そのものは経験できませんから、死の恐れという障碍です)が立ちはだかっています。「無礙の一道」といいますのは、これらの障碍そのものがないということではありません。われらは否応なく老いますし、病みますし、死にますが、しかしそれらが障碍としてのはたらきをしなくなるということです。
 「惑染の凡夫」のままであっても「本願の光明」のなかを歩むことで老病死などが障碍とならないというのですが、これはどういうことか。

タグ:親鸞を読む
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