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五逆と謗法 [「信巻を読む(2)」その136]

(2)五逆と謗法

さらに曇鸞の問答がつづきます。

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。

答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解(さと)り、もしは他に従ひてその心を受けて決定(けつじょう)するを、みな誹謗正法と名づくと。

問うていはく、かくのごときらの計(け、考え)はただこれおのれが事なり。衆生においてなんの苦悩あればか、五逆の重罪を踰(こ)えんやと(他の人にどのような苦悩をあたえるから、五逆の罪より重いというのか)。

答へていはく、もし諸仏・菩薩、世間・出世間の善道を説きて衆生を教化するひとましまさずは、あに仁・義・礼・智・信(儒教の五常、五つの徳目)あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖(けんじょう、仏・菩薩のこと)みな滅しなん。なんぢただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆゑに謗正法の人はその罪最重なりと。

問うていはく、業道経(業の善悪により苦楽の果報を得ることを教える経典の総称)にいはく、〈業道は秤のごとし、重きものまず牽(ひ)く〉と。『観無量寿経』にいふがごとし。〈人ありて五逆・十悪を造り、もろもろの不善を具せらん。悪道(悪趣ともいう、地獄・餓鬼・畜生)に堕(だ)して多劫を経歴(きょうりゃく)して無量の苦を受くべし。命終の時に臨んで、善知識の、教へて南無無量寿仏を称せしむるに遇はん。かくのごとき心を至して、声をして絶えざらしめて十念を具足すれば、すなはち安楽浄土に往生することを得て、すなはち大乗正定の聚(かならず仏となる位)に入りて、畢竟じて不退ならん。三途(三悪趣のこと)のもろもろの苦と永く隔つ〉と。まず牽くの義、理においていかんぞ(重い方から先に牽かれるという道理はどうなるのか)。また曠劫よりこのかたつぶさにもろもろの行を造れり、有漏(煩悩がある状態)の法は三界(欲界・色界・無色界、迷いの世界)に繫属(けぞく)せり。ただ十念をもつて阿弥陀仏を念じてすなはち三界を出でば、繫業の義(有漏の業は迷いの世界に繫ぎとめるということ)またいかんがせんとするやと。


タグ:親鸞を読む
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