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空虚な点としての「わたし」 [「親鸞とともに」その6]

(6)空虚な点としての「わたし」

「わたし」ということばについて考えてみましょう。このことばは一人称単数をあらわす代名詞で、話者をさします。いま語っている人が「わたし」であり、それが誰であってもかまいません。ということは「わたし」ということばそのものはまったくの無内容で、それが誰であるかの情報は何ひとつ含まれていないということです。それはちょうど「いま」という時間をさすことばが無内容であるのとまったく同じです。つまり「いま」という時刻はどこにもなく、誰かが「いま」と言ったときが「いま」であり、誰が「いま」と言っても、そのときがその人の「いま」です。

「わたし」ということばは無内容で、それが誰であるかの情報はまったくないと言いましたが、ではその情報はどこにあるかといいますと、それは「わたし」とつながっている人たち(ものたちも)とのつながりの中にあります。「わたし」とは、「わたし」の父母、兄弟姉妹、妻、友人、その他もろもろとのつながりに他なりませんから、「わたし」そのものをどれほどほじくりまわしても何も出てきません。「わたし」それ自体は、いってみれば空虚な点にすぎないということであり、それは「いま」も、それ自体、空虚な点であるのと同じことです。

実際に存在するのは、「わたし」とつながる無数の人やものたちとのつながり(縁、それは線で示されます)であり、「わたし」とはそうした無数の線が交わる空虚な点にすぎません(光学でいう「虚焦点」のようなものです)。ところがその「わたし」をあたかもつながりの主宰者であるかのように思い込み、「わたし」が主体となってさまざまなつながりをつくりだしているように思い込むところから、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む」ことになるのです。これはわたしの子であり、これはわたしの財である等と思うことは、われらが生きる上での大前提であり、そのように仮設しなくでは生活することができませんが、そのことと、「わたし」が「わたしの子」や「わたしの財」を所有するとして、それらに執着することは別であり、釈迦が我執ということばで否定したのは後者です。


タグ:親鸞を読む
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