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よきひとの仰せ [「『証巻』を読む」その58]

(7)よきひとの仰せ

ここで考えておきたいのは、仏と還相の菩薩と衆生の関係です。本文中に「仏、もろもろの菩薩のためにつねにこの法輪を転ず。もろもろの大菩薩、またよくこの法輪をもつて、一切を開導して暫時も休息なけん」とありますが、ここにその関係がよく示されています。仏は直に衆生を教化するのではなく、還相の菩薩を通して開導するということです。これは何を意味するかと言いますと、仏は「無量のいのち」ですから、われら「有量のいのち」と直接かかわることができず、ただ「有量のいのち」を通してふれることができるだけということです。あるいはこうも言えます、仏は「永遠のいのち」ですから、われら「時間のいのち」は、ただ「時間のいのち」を通して「永遠のいのち」にふれることができるだけだと。

『歎異抄』第2章で親鸞は関東からはるばるやってきた弟子たちにこう語っていました、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然聖人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。親鸞は「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと」信ずるだけであるとは言わず、「弥陀にたすけられまゐらすべしと、〈よきひとの仰せをかぶりて〉、信ずるほかに別の子細なきなり」と言います。これはどういうことかといいますと、われらは弥陀の本願に直に遇うことはできず、「よきひとの仰せ」を通してはじめて遇うことができるということです。あるいはこう言うべきでしょうか、われらは本願の声を直接聞くことはできず、それは「よきひとの仰せ」のなかから聞こえてくるだけであると。

それを親鸞は先のことばにつづけてこう言っています、「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり」と。これは弥陀の本願というものは自分が直接「知る」ことができるものではなく、「よきひとの仰せ」を通してはじめて「気づかせてもらう」ものであるということです。ここで「よきひと」と呼ばれているのが還相の菩薩であることは言うまでもありません。


タグ:親鸞を読む
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