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救世観音大菩薩 [親鸞の和讃に親しむ(その108)]

(8)救世観音大菩薩(これより聖徳奉讃)

救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して 多々(サンスクリットのタータ、父)のごとくすてずして 阿摩(同じくアンバー、母)のごとくにそひたまふ(第84首)

救世観音の慈悲心は 聖徳皇とあらわれて 父のごとくに見捨てずに 母のごとくによりそって

『正像末和讃』には十一首の聖徳奉讃が収められていますが、どうして聖徳太子を讃える和讃をという疑問が起こります(これ以外にも数多くの聖徳奉讃が詠われています)。それは現代のわれらにとって聖徳太子は推古天皇の摂政として、蘇我馬子とともに大和朝廷の中央集権化につとめた政治家としてのイメージが強いことがあると思われます。遣隋使の小野妹子に「日いずるところの天子、日没するところの天子に書を致す、つつがなきや」という書を持たせた人物という印象が前面に出るからでしょう。あるいは冠位十二階を制定し十七条の憲法をつくった偉大な人物というイメージがあります。

しかし言うまでもなく聖徳太子は『三経義疏』(『法華経』、『勝鬘経』、『維摩経』の注釈書)を著した仏教の先覚者です(『三経義疏』は彼の著作ではないという異説もありますが)。また彼の死後、妻の橘大女郎(たちばなのおおいらつめ)がつくらせた天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)に記された太子のことば「世間虚仮、唯仏是真(世間は虚仮、ただ仏のみこれ真なり)」に彼の仏教理解の深さがあらわれていると言うこともできます。実際、時代とともに政治家としての聖徳太子よりも仏教の先覚者としての聖徳太子の方がクローズアップされるようになり、平安期になりますと彼は救世観音の化身として日本に仏教を弘めたと一般に信じられるようになります。親鸞もまたそうした信仰のなかにいたということです(ある伝承によりますと、親鸞は若いころ河内磯長(しなが)の太子廟を訪ね、そこに何日か籠っています)。

親鸞と聖徳太子の縁として真っ先に頭に浮ぶのは、前にも触れました六角堂での夢告です。六角堂自体が聖徳太子の創建と伝えられますが、二十九歳の親鸞がそこに百日籠ったとき、その九十五日目の暁、夢のなかに救世観音の化身である聖徳太子があらわれ、「お前に妻帯の宿業があるのなら、わたしが玉のような女となって一生つれ添ってあげよう、そして浄土へ往生させよう」と告げたというエピソードです。この和讃では「阿摩のごとくにそひたまふ」とありますが、この夢告によりますと救世観音は妻として「そいたまふ」のです。そののち親鸞は公然と妻帯して「僧にあらず、俗にあらず(非僧非俗)」の生き方を選ぶことを考えますと、この夢告の重要性はひときわ大きいと言わなければなりません。


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