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はじめての親鸞(その132) ブログトップ

5月8日(水) [はじめての親鸞(その132)]

 親鸞自身のことばを聞いてみましょう。『末燈鈔』(親鸞の手紙を集めた書物です)にこうあります、「信の一念と行の一念というように二つあるようですが、信をはなれた行もあありませんし、行の一念をはなれた信の一念もありません。…どちらも阿弥陀仏のお誓いです」と。「信をはなれた行もありませんし、行の一念をはなれた信の一念もありません」とあるのは、先ほどの「信心は念仏を伴わなければならず、念仏は信心を伴わなければならない」と同じではないかと言われるかもしれません。でも、微妙に違うのです。
 「信心と念仏は一体」までは同じですが、「信心と念仏は一体である」と言うのと、「信心と念仏は一体でなければならない」と言うのとではまるで違ってきます。前者では、信心とは別の念仏も、念仏とは別の信心も存在しませんが、後者は、一方に信心があり、他方に念仏があって、その二つが手を携えなければならないと言っているのです。双方がバラバラでは往生というゴールに到達できないと言っているのです。
 「信心は念仏を伴わなければならず、念仏は信心を伴わなければならない」ということは、実際には「念仏を伴わない信心」も「信心を伴わない念仏」もあるということです。前者は一念義と呼ばれ、「本願を信じることが肝心だから、念仏を称えなくても往生は間違いない」と主張します。後者は多念義と呼ばれ、「いかに念仏を相続するかが肝心で、行住坐臥念仏し続けることで往生できる」と主張します。この両極端の主張に対して、いや、そうではなく信心を伴う念仏、念仏を伴う信心でなければならないのだと言うのは、いかにも正しく、真っ当な主張のように思われます。しかし…。

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