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招喚の勅命 [『教行信証』「信巻」を読む(その131)]

(2)招喚の勅命

「招喚の勅命」という言い回しはすでに「行巻」に出てきました。すなわち「南無阿弥陀仏」の六文字を注釈して、「南無」とは「帰命」であり、「帰命」とは「本願招喚の勅命」であると述べていました。「招喚の勅命」ということばは、善導『観経疏』の「二河白道の譬え」に由来します。二河の西岸から弥陀が「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」と喚ばうあの招喚です。「帰命」とは普通には、われらが弥陀に「あなたに随います」と言うことですが、親鸞はこれを弥陀がわれらに「わがもとに来れ」と呼びかけることだと逆転させるのです。

「欲生」もまた普通には、われらが弥陀に「みなともに浄土に生まれたい」と願うことですが、親鸞はこれを弥陀がわれらに「みなともに浄土に生まれさせたい」と願うことだと、そのベクトルの向きを逆転させているのです。それが「如来、諸有の群生を招喚したまふ」ということで、如来がわれらに「一心に正念にしてただちに来れ」と喚ばうということです。そこから「すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり」ということばが出てきます。真実の信楽とは、如来の「いのち、みな生きらるべし」という「疑いのない澄んだ心」ですが、その信楽を体として「あらゆるいのちをみなともに浄土に往生させたい」という如来の欲生が生まれてくるということです。もっと端的に言えば、信楽も欲生も如来のこころとしてひとつであるということです。

そしてそれにつづく「まことにこれ大小・凡聖・定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向となづくるなり」ということばも同じ趣旨で、欲生とはわれらの自力のこころではなく、如来から回向された他力のこころであるということです。如来の「みなともに浄土に生まれさせたい」という願いが回向されて、われらの「みなともに浄土に生まれたい」という願いとなっているということ、われらの欲生はもとをただせば如来の欲生であるということです。しかしどういう根拠でそんなことが言えるか。


タグ:親鸞を読む
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