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「気づく」と「知る」 [『ふりむけば他力』(その19)]

(3)「気づく」と「知る」

 これまで「気づく」を「知る」と対比してきました、「気づく」は主観的であるのに対して、「知る」は客観的であると。ただ、日常のことば遣いにおいて両者の境界は非常にあいまいで、どちらの言い方でもそれほど差がないことが多いと言えます。たとえば「いつの間にか外が暗くなっていることに気づいた」は「いつの間にか外が暗くなっていることを知った」と言い換えることができます。あるいは「途中で忘れ物をしていることに気づいた」の「気づいた」も「知った」と言ってもおかしくはないでしょう。でもどちらがより適切かと言えば、やはり「気づいた」であり、「知った」とはニュアンスが違うと言わなければなりません。
 「気づく」も「知る」もこれまで意識していなかったことを意識するようになるということでは共通しています。「外が暗くなっている」ことは、これまでまったく意識していませんでしたが、いまや意識するようになりました。ですから「気づいた」とも言えますし「知った」とも言えます。しかし「気づいた」と言うときは、意識するようになったのが「思いかけず」であるというニュアンスがあるのに対して、「知った」と言う場合は、そこに主体の意志があります。多少ともそのことを知ろうとしていて、その結果知ることができたという含みがあります。ですから「いつの間にか外が暗くなっている」には「気づいた」とつづくのが自然です。ふと外を見るといつの間にか暗くなっていたのですから。
 「気づく」も「知る」も、これまで意識していなかったことを意識するようになるという点では同じですが、そこに至るまでが異なるということです。「気づく」場合は、気づこうとして気づくのではなく思いがけなく気づくのに対して、「知る」場合は、知ろうとして知るということです。つまりこういうことです、「気づく」ときは「わたし」は「気づく」ことに後れを取り、気づいてからやっと「わたし」が姿をあらわしますが、「知る」ときは、「知る」前に「わたし」が知ろうと身構えています。「知る」のが「わたし」であるように、「気づく」のも「わたし」であることに違いはありません。しかし「わたし」が「知る」のと同じように「わたし」が「気づく」のではないのです。

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