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「わたしは嘘つきです」 [「親鸞とともに」その55]

(8)「わたしは嘘つきです」

前にも取り上げたことがありますが、「わたしは嘘つきです」という言明を例に考えてみたいと思います。この言明にはそれ自身のなかに矛盾が孕まれています。一方では「わたしは嘘つきです」が、しかしこの言明が正しければこの言明自体が嘘ですから、「わたしは嘘つきではない」ことになります。かくして「わたしは嘘つきであると同時に嘘つきではない」という矛盾に巻き込まれることになります。しかしこの言明は矛盾であるとして退場を命じられることはなく、むしろここには真実があると感じられることが多いのではないでしょうか。どうしてでしょう。

「わたしは嘘つきです」という言明は、誰かが自分について語っているのは確かですが、しかし実はそれに先立って、どこかから不思議な「こえ」が聞こえてきたのではないでしょうか、「おまえは嘘つきだ」と。その「こえ」には抗いがたいものがあり、かくして、それにこだまのように「わたしは嘘つきです」と言わざるを得なくなったということではないかということです。もしそうだとしますと、「わたしは嘘つきです」と本人が言っているには違いありませんが、実のところこの言明の正体は「おまえは嘘つきだ」という「こえ」にあり、この「こえ」には何の矛盾もありません。

さて問題は「わたしは生死の迷いのただなかにいます、しかしわたしは同時に涅槃のなかにあります(生死即涅槃)」という言明であり、この一見まったき矛盾が矛盾でなくなるのは、それが二種深信であるからということです。「わたしは生死の迷いのなかにあります」とは「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」ということであり、「わたしは涅槃のなかにあります」とは「かの願力に乗じて、さだめて往生を得」ということと同じですから、両者はぴったり重なります。そして大事なことは、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」が「機の深信」とよばれ、「かの願力に乗じて、さだめて往生を得」が「法の深信」とよばれるのは、これらは「たまわりたる信心(気づき)」であるということです。すなわち、これらはわれらが「こちらから」得たものではなく、「むこうから」与えられたものであるということです。


タグ:親鸞を読む
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