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疑蓋間雑(ぎがいけんぞう)なし [はじめての『尊号真像銘文』(その57)]

(4)疑蓋間雑(ぎがいけんぞう)なし

 さてしかし信心は「如来の回向による」ということ、あるいは「如来から回施(えせ)されたもの」であるというのはなかなかストンと落ちてくれません。回向とか回施というのは「与える」ということでしょうが、信心が与えられるというのはどういうことか、「賜りたる信心」というキャッチフレーズをどう受け取ればいいのか、どうしても咽喉の奥に引っかかるのです。信心はどこかからやって来たり、どこかへ行ってしまったりする「モノ」ではないと感じるからでしょう。
 先の三心一心問答のなかに「疑蓋間雑なきゆへに、これを信楽となづく」という文言がありましたが、これに注目したいと思います。
 疑蓋とは真実を覆い隠す疑いの蓋のことですが、疑いのこころは濁った水に譬えることができます。そして信楽のもとは「プラサーダ」というサンスクリットで、濁った水が澄むという意味です。これまで濁っていた水が、あるときサアーっと澄むように、これまで疑いに濁っていたこころが、あるときサアーっと澄み渡る。そうしますと、これまでまったく見えなかったものが見えてくる、これが信心です。もうとうの昔から本願が届いているのに、これまでまったく見えていなかった。そのことにふと気づく、これが信心です。
 では、信心は如来から「与えられる」というのはどういうことでしょう。
 濁っていたこころが澄むというのは、「みづからする」ことではなく、「おのづから成る」ことだということです。親鸞が言うように、「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時にいたるまで、穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄の心なし」です。そして無始よりこのかた濁ったままであるということは濁りが消えてはじめて分かることで、それまでは濁っていると思うことはありません。それが当たり前で、それ以外のありようはありません。ですから「濁りを取り除こう」と思うこともありません。とすればこころが澄むことは「みづからする」ことではありえません、「おのづから成る」ことでしかないということになります。

タグ:親鸞を読む
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