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貪愛・瞋憎の雲霧 [『教行信証』「信巻」を読む(その78)]

(6)貪愛・瞋憎の雲霧


 この譬えにおいて水火の二河は貪愛瞋憎の心(煩悩)を意味し、四五寸の白道が清浄願往生の心(信心)を指しますから、清浄願往生の心は貪愛瞋憎の心のただなかにあります。われらに清浄願往生の心が芽生えても、その周りは貪愛瞋憎の心に囲まれているということです。貪愛の「水の波浪交はり過ぎて道をうるほ」し、瞋憎の「火焔また来りて道を焼く」のです。しかしそんな中で「決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生」じないのは、釈迦発遣の「こえ」と弥陀招喚の「こえ」が聞こえているからです。「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」(『高僧和讃』天親讃)です。


また「正信偈」にはこうあります、「摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。たとえば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」と。どれほど煩悩の雲霧に覆われても、もうすでに弥陀の心光に摂取不捨されているのですから、心は明るく晴れやかです。これが現生正定聚の「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ありようですが、ただこの譬えでは白道の長さは百歩で「一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る」とされます。これで見ますと、白道はそこに足を踏み入れれば、あっという間に(須臾にすなはち)西岸に至り「仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらん」と言われます。


しかし白道に足を踏み出したとはいえ、すなわち如来の招喚により清浄な信心が芽生えたとはいえ、貪愛の「水の波浪交はり過ぎて道をうるほ」し、瞋憎の「火焔また来りて道を焼く」なかを歩む生活はその後ずっとつづくと言わなければなりません。正定聚の生活とはもう何の憂いも苦しみもないものではなく、日々、貪愛・瞋憎の雲霧に覆われながら、しかし根本のところで摂取の心光に照護されています。さまざまな煩悩に悩みながら、しかし心は明るく晴れやかです。なぜなら「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)からです。よくよく考えてみますと、貪愛・瞋憎の水火の難があるからこそ如来回向の信心が輝くと言えます。煩悩の摩擦のないところでは信心のありがたさを感じることがないのではないでしょうか。



タグ:親鸞を読む
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