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自力をはなれたる [『歎異抄』ふたたび(その79)]

(9)自力をはなれたる

 ここまできまして「ひとへに他力にして、自力をはなれたる」ということばの真意を了解することができます。「自力をはなれたる」というのは、自力そのものからはなれることではありません(それは文字通りのロボットになることです)、自力の囚われからはなれることです。自力の囚われといいますのは、何ごとであれ「わたし」が「そうしよう」と思うことが起点となると思い込み、「そうしよう」と思うこと自体が目に見えない縁の力で「そうせしめられている」ということに思い至らないということです。
 自力の囚われからはなれるということは、自力の囚われに気づくことに他なりません。そして自力の囚われに気づくことは、取りも直さず他力すなわち目に見えない縁の力に気づくことです。これが「ひとへに他力にして、自力をはなれたる」ということで、念仏することは、紛れもなく自分で「そうしよう」と思ってしているのですが(その意味では自力ですが)、しかし同時に、「念仏しよう」と思うこと自体が本願他力により「そうせしめられている」ということです。
 われらはともすれば「自力か、さもなくば他力」と考えます。「自力or他力」という発想ですが、実は「自力であり、かつ他力」で、「自力and他力」という関係になっています。何ごとも「そうしよう」と思ってしている以上、例外なく自力ですが、しかし、それがすべて「そうせしめられている」のであり、例外なく他力です。「自力and他力」といいますと、「そうか、半分は自力で、あとの半分が他力ということか」と思われるかもしれませんが、さにあらず。「100パーセント自力で、同時に、100パーセント他力」ということです。「自力and他力」とは、「自力プラス他力」ではなく「自力イコール他力」ということです。
 孫悟空は全部自分の力でやっていると思っていますが、そしてそれに間違いがあるわけではありませんが、でも、ふと気がついてみますと、なんとすべてはお釈迦様の掌の上でのことです。

                (第8回 完)

タグ:親鸞を読む
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