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往生するということ [『観無量寿経』精読(その93)]

(3)往生するということ

 第三十四願や第四十八願では「わが名字を聞」くことができたそのときに無生(法)忍を得るとありますが、第十八願成就文では「その名号を聞きて信心歓喜」したそのときに「すなはち往生を得、不退転に住せん」とありますから、無生(法)忍を得ることと往生を得ることは別のことではなく、それはすなわち不退転に住することであると理解できます。また親鸞のことばを参照しますと『唯信鈔文意』にこうあります、「(第十八願成就文の)即得往生は、信心をうればすなはち往生すといふ。すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり」と。
 かくして「極楽世界の広長の相を見たてまつる。仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なりと歎ず。廓然として大悟して無生忍を得たり」という文は、韋提希が仏とその浄土を観ることができたそのとき浄土に往生できたと理解することができます。さあしかしこのように言いますと、「いまここ」で「浄土に往生する」ということがどうにもすんなりと頭に収まってくれません。往生というのは「往きて生まれる」ということだから、それは今生が終わってからに決まっているではないかと思ってしまうのです。
 しかし往生の「生」は「生まれる」であるとともに「生きる」でもあります。そこで往生を「新たに生きる」とイメージしてみたらどうでしょう。これまでとは違う新しい生き方をするようになるのだということです。これまではただひたすら「わたしのいのち」としてしか生きてきませんでしたが、あるとき「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であることに気づく、これが本願に遇うということ、いまの場合、仏と浄土を観るということです。そのとき「わたしのいのち」を生きることは変わらないものの、そのままで同時に「ほとけのいのち」を生きることがはじまります。これが往生のイメージです。そしてそのとき浄土もまたこことは別の世界(アナザーワールド)ではなく、ここが穢土でありつつ、そのままで同時に浄土になります。

タグ:親鸞を読む
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