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無明長夜の灯炬なり [親鸞の和讃に親しむ(その93)]

(3)無明長夜の灯炬なり

無明長夜(じょうや)の灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海の船筏(せんばつ)なり 罪障おもしとなげかざれ(第36首)

(格調が高すぎて、訳不能)

これは親鸞の兄弟子にあたる聖覚の文「無明長夜の大いなる灯炬なり、なんぞ智眼のくらきことを悲しまん。生死大海の大いなる船筏なり、あに業障のおもきことを煩はんや」に由っています(この文は『尊号真像銘文』の「法印聖覚和尚の銘文」のなかにあります)。同じ趣旨のことばとして『教行信証』の序に「難思の弘誓は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する恵日なり」とありますが、灯炬(恵日)や船筏(大船)は弘誓を譬えるのにぴったりです。このことばは、すでに弘誓に遇うことができた人が、それを「無明長夜の灯炬」や「生死大海の船筏」に譬え、自分や同朋に向かって「智眼くらしとかなしむな」、「罪障おもしとなげかざれ」と言っていると理解すべきでしょう。それを裏返して言いますと、すでに弘誓に遇うことができたとしても、「智眼くらしとかなし」み、「罪障おもしとなげ」く自分がいるということです。

思い出すのが『歎異抄』第9章です。「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬ」はどうしたことでしょうと問いかける唯円に対して、親鸞はこう答えていました、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と。そして「踊躍歓喜のこころおろそか」であるのも「いそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬ」のも、みな「煩悩の所為」であり、「他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」と言うのです。正信偈にもありますように、弘誓に遇うことができても「貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天を覆」っています。しかし「貪愛・瞋憎の雲霧」を悲しむことはありません、「かくのごときわれらのために」、「無明長夜の灯炬」・「生死大海の船筏」が用意されているのですから。

難思の弘誓に遇いながら、日々、つまらぬことにくよくよしている自分がいます。そんな自分に「ああ、どうしてこんなことに煩わされているのか」と悲しくなりながら、「他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆる」のです。


タグ:親鸞を読む
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