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『歎異抄』を読む(その18) ブログトップ

6月2日(土) [『歎異抄』を読む(その18)]

 「なむあみだぶ」はぼくらが称えるのではなく、どこかから聞こえてくる。そしていつの間にかそれに唱和している。聞こえてきた「なむあみだぶ」と一体となっていると言えばいいでしょうか。これが念仏です。
 親鸞は『教行信証』の中で、「南無」ということばについて、それは「帰命」ということだが、実は「本願招喚の勅命」だと言っています。ぼくらが阿弥陀仏に呼びかけるというよりも、阿弥陀仏がぼくらを招いてくださっていると捉えるのです。何と言って招いてくださっているのかと言えば、ぼくのことばでは「生かしめんかな」と。
 では第一章に入ります。先ず本文を読んでみましょう。
 「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこゝろのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重(じんじゅう)、煩悩熾(し)盛(じょう)の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。」
 「阿弥陀仏の不可思議な誓願に助けられ往生させていただくと信じて、念仏申そうと思い立つこころが起こったそのとき、阿弥陀仏の光明に摂め取っていただき決して捨てられないという利益を与えていただけたのです。阿弥陀仏の本願には、年を取っていようがいまいが、善人だろうが悪人だろうが関係ありません。ただ信心だけが肝要です。何故かと言いますと、阿弥陀仏の本願は罪重く、煩悩が燃え盛っている衆生をたすけんがためのものだからです。ですから本願を信じるのに、他の善は必要ありません。念仏に勝る善はないのですから。悪をおそれることもありません。阿弥陀仏の本願を妨げるほどの悪はありませんから。と、こんなふうにおっしゃったことでした。」

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