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山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて [親鸞の手紙を読む(その115)]

(2)山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて

 これには宛先が書かれていませんが、越後にいる恵信尼が京の娘・覚信尼に宛てて書いたものであることは内容から明らかです。そして日付もありませんが、これまた内容からして弘長3年(1263年)の初めであることが分かります。覚信尼が弘長2年の12月1日付で母・恵信尼に書き送った手紙が12月の20日過ぎに届き、それを読んだ恵信尼が返事として書いたのがこの手紙です。覚信尼からの手紙というのは、父・親鸞が亡くなったことを知らせたものであることが分かります。恵信尼はそれに「殿の御往生、なかなかはじめて申すにおよばず候ふ(殿が往生されたことは言うまでもありません)」と応じていますことから、覚信尼が親鸞の臨終の様子を報告したのだろうと推測できます(後の文章から、いわゆる大往生ではなかったようです)。親鸞が亡くなったのは弘長2年11月28日ですから、その翌々日に報告の手紙を書いたわけです。
 親鸞の臨終の様子を聞いた恵信尼は、娘に向かって、親鸞が若かった頃のエピソードを語り出します。六角堂への百か日参籠、その九十五日目の明け方に聖徳太子の示現があったこと、それを縁として吉水の法然上人を訪ね、また百か日通い続けたこと、そして法然上人の往かれるところへは、たとえ地獄であろうとついていこうと決意したことが語られます。親鸞の人生を決定づけた重要なひとこまについての貴重な証言です。親鸞自身は『教行信証』の後序において「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦(1201年、親鸞29歳)、雑行をすてて本願に帰す」と書き残しているだけで、六角堂参籠のことも、聖徳太子の示現のこともまったく触れていません。しかし妻・恵信尼にはそのときのことを詳しく、そして繰り返し語り聞かせたことでしょう。だからこそ恵信尼はまるで昨日のことのようにそれを娘に語り伝えることができたわけです。
 どうして恵信尼が娘にこのような話を語り伝えたかは、後につづく部分も含めて綜合的に考えますと、覚信尼が親鸞の臨終の様子に少し不安を覚えたようなので、「あなたの父・親鸞はこんな人ですよ」と語ることで何も心配することはないと言いたかったのだろうと推測できます。

タグ:親鸞を読む
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