SSブログ
「信巻を読む(2)」その4 ブログトップ

よこさまに超えるとは [「信巻を読む(2)」その4]

(4)よこさまに超えるとは

この一つ前の文で、本願の信心について「たとへば阿伽陀(あかだ)(やく)のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり」と述べられていました。愚が毒であるのはもちろん、智もまた毒であるというのですが、これは世の普通の理に反すると言わなければなりません。われらは須らく愚の状態から智の状態へと一歩一歩進まなければならないと言われます。それが啓蒙すなわち(くら)き(蒙昧(もうまい))を(ひら)く(啓発する)ことで、そのことでよく生きることができるとされます。しかし本願の信心から言えば、われらの知は分別知であり、大いなる智すなわち仏智(本願)から見れば愚痴に他なりません。われらのは主客を分別し、自他を分別するものであり、仏の無分別智からすれば、囚われた知でしかありません。真実の信心は「よく智愚の毒を滅する」とはそういうことです。

これを「たてさま」と「よこさま」ということで言いますと、われらが愚から智へ進むことが「たてさま」であり、それに対して智愚そのものを超えるのが「よこさま」です。ニーチェの著作に「善悪の彼岸」というのがありますが、それをお借りしますと、「智愚の彼岸」に立つということです。智と愚が相剋する世界から、もう智愚の対立のない向こう岸へ超えるのです。それは「ほとけのいのち」を生きることに他なりませんが、しかしだからと言って「わたしのいのち」でなくなるわけではありません。これまで同様「わたしのいのち」を生きながら、したがって智愚の相剋を生きながら、同時に「ほとけのいのち」を生きるのです。そのとき智愚の毒は滅しています。

『大経』には「よこさまに五悪趣を()」とありましたが、それは五悪趣からどこか別の世界(西方十万億土)へ往くことではありません。五悪趣のただなかを生きながら、同時に五悪趣をよこさまに超えるのです。そのとき五悪趣は五悪趣のままでありながら、もはや五悪趣の毒は滅しています。れが「悪趣自然に閉じ、道に昇るに窮極(ぐうごく)なからんということです。また「玄義分」の「横に四流を超断せよ」という文も、四流すなわち煩悩の激流を断ち切ってしまうのではありません、四流のただなかにありながら、同時に四流をよこさまに超えているのです。そのとき四流の毒は滅しています。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その4 ブログトップ