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自障障他せしほどに [はじめての『高僧和讃』(その165)]

(15)自障障他せしほどに

 次の和讃です。

 「西路(さいろ)を指授(しじゅ)せしかども 自障障他(じしょうしょうた)せしほどに 曠劫(こうごう)以来もいたづらに むなしくこそはすぎにけれ」(第85首)。
 「西をめざせの声するが、自他の障りで聞こえずに、遠き過去より今日までも、むなしくときを過ごしたり」。

 これも、もとになっているのは『法事讃』の次の一節です、「衆生邪見にしてはなはだ信じがたし。もつぱらにしてもつぱらなれと指授して西路に帰せしめしに、他のために破壊(はえ)せられて還りて故(もと)のごとし。曠劫よりこのかたつねにかくのごとし」。本願をそしるような人にも本願の声は届けられているはずですが、自他の障りがあって(善導は他の障りしか挙げていませんが、親鸞は自他の障りとします。他の障りと言えども、結局は己れ自身が障りになっているということでしょう)その声が聞こえないまま、彷徨い続けているのだということです。
 ここで自障ということについて改めて考えたいと思います。届けられているはずの本願の声がどうして聞こえないのかについて、これまでは「わたし」がバリアになっているという観点から考えてきましたが、今度は新しい角度から迫ってみましょう。善導『般舟讃』の末尾に有名な文があります。「凡夫の生死、貪していとはずばあるべからず。弥陀の浄土、かろしめてねがはずばあるべからず。いとへばすなはち娑婆ながくへだつ。ねがへばすなはち浄土つねに居す」。
 さて、この文の「いとはずばあるべからず」、「ねがはずばあるべからず」をどう読むかは微妙なものがあります。ひとつは「(娑婆を)いとわないようではいけません」、「(浄土を)ねがわないようではいけません」と読みますが、もうひとつは「(娑婆を)いとわないのが凡夫というものです」、「(浄土を)ねがわないのが凡夫の凡夫たる所以です」と読むこともできます。前者が常識的で、どの本を見てもこちらをとっていますが、ぼくは後者の方が親鸞の意に沿う深い読みだと思います。

タグ:親鸞を読む
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