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「信巻を読む(2)」その138 ブログトップ

五逆と十念 [「信巻を読む(2)」その138]

(4)五逆と十念

答へていはく、なんぢ五逆・十悪繫業(けごう)等を重とし、下下品(下生下品)の人の十念をもつて軽(きょう)として、罪のために牽かれてまづ地獄に堕して三界に繫在すべしといはば、いままさに義をもつて軽重(きょうじゅう)の義を校量(きょうりょう、比較)すべし。心に在り、縁に在り、決定に在り、時節の久近(くごん)・多少に在るにはあらざるなり。

いかんが心に在ると。かの罪を造る人は、みづから虚妄顛倒(てんどう)の見に依止(えじ)して生ず。この十念は、善知識の、方便安慰(あんに)して実相の法を聞かしむるによりて生ず。一つは実、一つは虚なり。あにあひ比ぶることを得んや。たとへば千歳(せんざい)の闇室に、光もししばらく至れば、すなはち明朗(みょうろう)なるがごとし。闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。これを在心と名づく。

いかんが縁に在ると。かの罪を造る人は、みづから妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生によりて生ず。この十念は無上の信心に依止し、阿弥陀如来の方便荘厳真実清浄無量功徳の名号によりて生ず。たとへば人ありて毒の箭(や)を被(かぶ)りて、中(あた)るところ筋を截(き)り、骨を破るに、滅除薬の鼓(つづみ)を聞けば、すなはち箭出(ぬ)け、毒除こるがごとし。『首楞厳経(しゅりょうごんきょう)』にいはく、たとへば薬あり、名づけて滅除といふ。もし闘戦の時にもつて鼓に塗るに、鼓の声を聞くもの、箭出け、毒除こるがごとし。菩薩摩訶薩もまたまたかくのごとし。首楞厳三昧(煩悩のけがれを破る勇猛な三昧)に住してその名を聞くもの、三毒(貪・瞋・痴)の箭、自然に抜出(ばっしゅつ)すと。あにかの箭深く、毒はげしからんと、鼓の音声聞くとも、箭を抜き毒を去ることあたはじといふことを得べけんや。これを在縁と名づく。

いかんが決定に在ると。かの罪を造る人は有後心(まだ後があるという思い)・有間心(他の思いがまじること)に依止して生ず。この十念は無後心・無間心に依止して生ず。これを決定と名づく。三つの義を校量するに、十念は重なり。重きものまづ牽きて、よく三有を出づ。両経(観経と業道を説く経)一義ならくのみと。


タグ:親鸞を読む
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