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本文20 [はじめての『尊号真像銘文』(その98)]

       第8回 大悲ものうきことなくつねにわが身を照らしたまふ

(1)本文20

皇太子聖徳御銘文
 『御縁起』曰「百済国聖明王太子阿佐礼曰、敬礼救世大慈観音菩薩、妙教流通東方日本国、四十九歳伝燈演説」
 「新羅国聖人日羅、礼曰、敬礼救世大慈観音菩薩、伝燈東方粟散王」

 「御縁起曰(ごえんぎわつ)」といふは、聖徳太子の御縁起なり。「百済国(はくさいこく)」といふは、聖徳太子、さきの世に生れさせたまひたりける国の名なり。「聖明王(せいめいおう)」といふは、百済国に太子のわたらせたまひたりけるときの、その国の王の名なり。「太子阿佐礼曰(たいしあさらいわつ)」といふは、聖明王の太子の名なり。聖徳太子をこひしたひかなしみまゐらせて、御かたちを金銅にて鋳(い)まゐらせたりけるを、この和国に聖徳太子生れてわたらせたまふとききまゐらせて、聖明王、わがこの阿佐太子を勅使として、金銅の救世観音の像をおくりまゐらせしとき、礼しまゐらすとして誦せる文なり。「敬礼救世大慈観音菩薩(きょうらいくせだいじかんのんぼさつ)」と申しけり。「妙教流通東方日本国(みょうきょうるずうとうぼうにっぽんこく)」と申すは、上宮太子、仏法をこの和国につたへひろめおはしますとなり。「四十九歳」といふは、上宮太子は四十九歳までぞ、この和国にわたらせたまはんずると阿佐太子申しけり。おくられたまへる金銅の救世菩薩は、天王寺の金堂にわたらせたまふなり。「伝燈演説(でんとうえんぜつ)」といふは、「伝燈」は仏法をともしびにたとへたるなり。「演説」は、上宮太子、仏教を説きひろめましますべしと阿佐太子申しけり。
 また新羅国より、上宮太子をこひしたひまゐらせて、日羅と申す聖人きたりて、聖徳太子を礼したてまつりてまうさく、「敬礼救世大慈観音菩薩(きょうらいくせかんのんぼさつ)」と申すは、聖徳太子は救世観音にておはしますと礼しまゐらせけり。「伝燈東方(でんとうとうぼう)」と申すは、仏法をともしびにたとえて、「東方」と申すはこの和国に仏教のともしびをつたへおはしますと日羅申しけり。「粟散王(ぞくさんおう)」と申すは、このくにはきわめて小国なりといふ。「粟散」といふは、あわつぶをちらせるがごとく小さき国の王と聖徳太子のならせたまひたると申しけるなりと。

 「御縁起に曰く」とは、聖徳太子の縁起に曰くということです。「百済国」とは、聖徳太子が前世で生まれられた国の名です。「聖明王」とは、太子が百済においでになっていたときの、その国の王の名です。「太子阿佐礼曰」の阿佐とは、聖明王の太子の名です。聖明王が亡き聖徳太子を慕い悲しまれて、その御姿を金銅で造られたのですが、聖徳太子がこの日本に生まれかわられたと聞かれて、わが子の阿佐太子を勅使として遣わし、金銅の救世観音像を贈られたのですが、その時阿佐太子が聖徳太子を礼拝して、次のように申されたのです。「敬礼救世大慈観音菩薩」と。「妙教流通東方日本国」とは、聖徳太子が仏法をこの日本に伝え広められるということです。「四十九歳」と言いますのは、聖徳太子は四十九歳まで、この日本の国におられるでしょうと阿佐太子が申されたのです。贈られました金銅の救世観音像は、天王寺の金堂に安置されています。「伝燈演説」の「伝燈」とは、仏法をともしびにたとえているのです。「演説」とは、聖徳太子が仏教を説き広められるであろうと阿佐太子が申されたのです。
 また新羅の国から聖徳太子を恋い慕って、日羅という聖人がまいられて、聖徳太子を礼拝し、「敬礼救世大慈観音菩薩」と申されたのですが、これは聖徳太子を救世観音として礼拝しているのです。「伝燈東方」と言いますのは、仏法をともしびにたとえ、東方とはこの日本という国ですから、聖徳太子は日本に仏教のともしびを伝えられたと日羅が申しているのです。「粟散王」とは、この日本という国はきわめて小さな国だということです。粟散とは、あわ粒を散らしたようなということで、そのような小さな国の王に、聖徳太子がなられたと日羅が申しているのです。

 親鸞が聖徳太子に寄せる思いには興味をひかれますが、この文は聖徳太子にまつわる伝説ですので、読むだけにしておきましょう。

タグ:親鸞を読む
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