SSブログ
『教行信証』精読2(その115) ブログトップ

気づくと見る [『教行信証』精読2(その115)]

(8)気づくと見る

 何かにふと「気づく」とき、「わたし」は気づきに遅れを取ります。何かに気づいたのちに、ようやく「わたし」が目を覚まして「あゝ、そうだったのか」と思い知るのです。「わたし」が前もって「気づいてやるぞ」と構えて気づくのではありません。そんな構えがあるところに気づきが訪れることはなく、思いもよらないときに気づきはやってきます。しかし、何かを「見る」ときには、まず「わたし」が見てやろうと構えています。「わたし」が見ることに先んじて構えをとっています。その構えがありませんと「見れども見えず」で、何ひとつ見ることができません。
 この「わたしが見ようと構える」というところに問題を解く鍵があります。
 わたしが何かを見ようと構えるとき、こちらにわたしがいて、むこうに対象があり、両者は切り離されています。当たりまえのことで、そのことを意識することはありませんが、何かに気づくことと対比してみますと、それがくっきり浮かび上がります。何かにふと気づいたときは、それとわたしは切り離されていません、融合しています。気づいたあと、ようやくわたしと対象が離れて、「あゝ、そうだったのか」と了解するのです。しかし何かを見てやろうと構えるときは、もう端からわたしがいて、そして向こうに対象があり、両者は最初から別ものです。
 さてそうしますと、わたしが見ようと構えても、どうしても見ることができないものがあります。それがわたしです。わたしはつねに見る側にありますから、そのわたしを見ることはどうあってもできません。わたしを見ることなど造作もない、鏡にうつせばいいじゃないか、写真にとってもいい、と言われるかもしれませんが、そうして見るわたしは「見られたわたし」であって「見るわたし」ではありません。「見るわたし」はどう頑張っても見ることはできません。それは自分の影を踏んでやろうとするようなもので、追っかけるだけ遠ざかるのです。
 これが「無明覆へるをもつてのゆゑに、見ることを得ることあたはず」ということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その115) ブログトップ