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欣(ねが)へばすなはち浄土につねに居せり [『教行信証』「信巻」を読む(その16)]

(6)欣(ねが)へばすなはち浄土につねに居せり


 さて二つ目の「欣浄厭穢(ごんじょうえんね)の妙術」ですが、このことばの背景には善導の『般舟讃』の次の文章があると思われます、「凡夫の生死貪じて厭はざるべからず。弥陀の浄土軽めて欣はざるべからず。厭へばすなはち娑婆永く隔つ。欣へばすなはち浄土につねに居せり」と。前半は普通に「凡夫の生死は貪るべからざれども厭はず。弥陀の浄土は軽んずべからざれども欣はず」と読むのが分かりやすいと言えますが、親鸞の読みの方が迫力があると言えます。凡夫というものは「わたしのいのち」を貪るものであり、娑婆に囚われて浄土を願うことはないということです。しかし、娑婆への囚われがなくなれば、もう娑婆から離れたようなものであり、また浄土を願うだけで、そのときもう浄土に居るのだ、と言うのです。


この最後の一文が親鸞には印象深かったようで、関東の弟子・性信房への手紙のなかでこう言っています、「光明寺の和尚(善導です)の『般舟讃』には、〈信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す〉と釈したまへり。〈居す〉といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり」と。元の文と少し違っていますが、信心を得たそのときに、もう浄土に居ると言っています。それにしても「欣へばすなはち浄土につねに居せり」とは驚くべきことと言わざるをえません、浄土を願えば、そのとき(すなはち)もうすでに浄土に居ると言うのですから。普通は何かを願うだけでその願いがかなうなどというのは魔法の国のお話です。これをどう理解すべきでしょう。


その答えはこの後すぐ出てくる第十八願の成就文が教えてくれます。それは「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」というものです。この「至心に回向したまへり」の部分は親鸞の読みで、普通に読みますと「至心に回向して(かの国に生ぜんと願ずれば)」となりますが、親鸞は「至心に回向する」主体を「われら」から「如来」へと転換しているのです。そう読むことで、われらが「かの国に生ぜんと願ずる」より前に、如来がわれらに往生を願うよう「至心に回向」してくださっていることになります。そうだとしますと、われらが往生を願うときには、「すなはち(もうすでに)浄土につねに居せり」ということになるではありませんか。





タグ:親鸞を読む
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