SSブログ
親鸞の手紙を読む(その7) ブログトップ

他力のなかの自力とは [親鸞の手紙を読む(その7)]

(7)他力のなかの自力とは

 第1段で、臨終のときに往生がさだまるか、それとも信心のさだまるときに往生がさだまるかは、真実の信心があるかどうかによると述べられました。
 信心とはわれらが本願をゲットすることだとしている限り(これは自力の信心であり、真実の信心ではありません)、臨終のときに弥陀の来迎を待ってはじめて往生がさだまるのに対して、信心とは本願がわれらをゲットすることだとすれば(これが他力の信心であり、真実の信心です)、信心のときに往生がさだまり、そのときただちに往生の旅がはじまるのです。このように、すべては真実の信心がさだまっているかどうかの一点にかかっているということです。
 第2段ではそれを受けて、正念(信心とおなじです)に「他力のなかの他力」の正念と「他力のなかの自力」の正念があると述べます。
 「他力のなかの他力」は正真正銘の他力ということでいいと思いますが、「他力のなかの自力」とはどういうことでしょう。一見したところ他力だが、実は自力ということに違いありません。「一見したところ他力」とは、弥陀の本願という他力に依って往生しようとするということですが、「実は自力」とは、その本願他力をこちらからゲットしようとしているということです。本願他力はむこうからゲットされるしかないのですが、それをこちらからゲットしようとしているのです。
 この「一見したところ他力だが、実は自力」というのは至るところに見られます。わが子の病気平癒を願って社寺にお百度まいりするなどというのはその典型でしょう。神仏の加護をたのむという点では他力ですが、お百度まいりすることで神仏の加護をみずからゲットしようとするという点では紛れもなく自力です。気がついたら神仏の加護のなかにあったとほれぼれするのが「他力のなかの他力」ですが、神仏の加護を手に入れてやろうとはからうのは「他力のなかの自力」です。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その7) ブログトップ