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本願力の証明 [『ふりむけば他力』(その24)]

(8)本願力の証明

 本願力を信ずるとはそれに気づくことで、本願力に気づいたこと自体がそれの存在証明であると述べてきましたが、これはしかしそのまま受け入れるのはなかなか難しいと言わなければなりません。そんなのは証明でも何でもない、ただ誰かがそれに「気づいた」と言っているだけではないかという思いがムラムラと立ち上がってくるからです。証拠をそろえて誰でも納得できるようにしてはじめて証明と言えるのであり、「気づいた」こと自体が証明であるなどというのは詭弁にすぎないと思われます。
 金子大栄という人は浄土真宗において誰ひとり知らない人はいないと言えるほどの権威ですが、この人は若いころ、本願力を証明することが何よりも大事なことである、それが自分に課せられた使命であると思ったそうです。浄土真宗が真実の教えであることを世間一般に訴えるためには、本願力の証明が不可欠であると。ところがそれに必死に取り組むなかで、あるときはたと思い当たったと言うのです、話はまるであべこべではないかと。いま「わたし」が本願力の存在を証明しようと奮闘しているが、何ということだ、本願力の方が「わたし」の存在を証明してくれるのではないかと思い当たったと言うのです。
 本願力に気づくこと自体がその証明であるということは、本願力に証明など不要ということです。
 しかしそうしますと、ここに深刻な疑問が浮び上がります。教化(きょうけ)の問題です。一般に宗教にとって布教ということがいちばん厄介な問題だと言えるでしょう(およそ宗教をめぐる軋轢はこれが火種となって起こります)。自分が信心を得て救われたらそれでよしでしたら問題はないのですが、自分が信じるだけでなく人を教えて信ぜしめることがかならずそれに伴って出てきます。いや、自分が信じることと人を信ぜしめることは切り離すことができませんから、どのようにして人を教化するかが重大な問題となります。金子大栄氏が本願力の存在を証明しなければならないと考えたのも、そうすることではじめて他人を教化できると思ったからに違いありません。しかし本願力に証明はないとしますと、その教化はどのように行えばいいのでしょう。

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