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八不 [『ふりむけば他力』(その93)]

(2)八不

 『中論』冒頭におかれた文(帰敬序とよばれます)にこの書の結論が約められています。

 「何ものも消滅することなく(不滅)、何ものも新たに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一)、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることなく(不異)、何ものも来ることなく(不来)、去ることもない(不去)、戯論の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼(きょうらい)する」(中村元氏の訳)。

 これから展開する議論の結論をはじめにポンと出しているのですから、何を言おうとしているのか分かるはずもありませんが、それにしても、これまた何という常識外れの議論かというのが第一印象ではないでしょうか。第一に、何ものも滅することなく(不滅)、また生ずることもない(不生)と言いますが、われらの常識では、どんなものもあるとき生じ、またいつの日か滅します。第二に、何ものも終わりがあることなく(不断)、しかしまた常に存在することもない(不常)と言いますが、これまたどんなものも必ず終わりがあるものだと思います。第三に、何ものも同一であることなく(不一)、しかしまた別異であることもない(不異)と言いますが、何ものも同じでありつづけることなくつねに変化するものであると思います。第四に、何ものも来ることもなければ(不来)、行くこともない(不去)と言うのですが、これまた、こちらに来ることもあれば向こうに去ることもあるのが当然ではないかと思います。
 さて、この八不を出したあと、すぐつづけて「戯論の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を云々」とくるのですが、ここで八不というのは龍樹の主張であるのか、それとも反対者の戯論であるのかという疑問が生まれます。「…去ることもない」のあと、読点で「戯論の消滅という」とつながっていくのですが、このつながりがよく見えません。「…去ることもない」とすることが「戯論」であるのか、それともそれは「戯論の消滅」であるのか。本論に入りましてようやく八不が龍樹の主張であり、そしてそれが戯論の消滅に他ならないことが分かります。そうしますと戯論とされる反対者の立場はきわめて常識的であるのに対して、龍樹の八不は何とも奇矯な考え方であると言わざるをえません。
 さてさていったい龍樹は何を言おうとしているのでしょうか。

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