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不可知ということ [『ふりむけば他力』(その85)]

(9)不可知ということ

 縁起はその実際のありよう(具体的なつながり)を「知る」ことができないということを確認しておきたいと思います。
 先ほど言いましたように、何かを「知る」というのは、「いつ」でも「どこ」でも「だれ」でもそうであるということですが、縁起における因果のつながりはそれぞれが一回限りの特殊なものです。そしてその一回限りの特殊なつながりは、それに遇ってはじめて姿をあらわし、そのとき「ああ、そういうつながり(縁)があったのか」と「気づく」のです。何度も持ち出すようで恐縮ですが、ある人に遇い、「ああ、この人だ、この人を待っていたのだ」と思うという経験。この経験の不思議さは、たまたま遇ったのにかかわらず、遇ってしまうと、そこに「赤い糸」を感じるところにあります。そのとき「ああ、こういうつながりがあって、遇うようになっていたのだ」と「気づく」のです。
 このように縁起というつながりは、それに遇ってはじめて、そのつながりの存在に「気づく」のであり、それを一般的に「知る」ことはかないません。ところが仏教の言説においてしばしばお目にかかるのは「縁起を〈知る〉」という言い回しです。そしてそれが「仏法を〈悟る〉」ことであると言われるのです。この言い方からは、これまで無明の世界を彷徨っていた人が、悟りを開くことで真如の世界に入ることができたという印象を受けます。闇の世界にいた人が、突然、光の世界に入るというイメージですが、しかし事態はそのようにはなっていません。
 そのことをもう一度カント哲学を持ち出して考えてみようと思います。前に触れました仏教とカント哲学との意外な親縁性をここでも見ることができます。
 繰り返しになりますが、カントはわれらの前に広がっている世界はわれらが生まれつき着けている特殊な眼鏡を通して見えている世界であり、ありのままの世界ではないと考えました。その特殊な眼鏡は時間と空間という感性の形式と、原因・結果の概念などの悟性のカテゴリーでできています。その眼鏡を通して見える世界はわれらによって加工・調整された世界であり(カントはこの世界を現象界とよびます)、ありのままの世界ではありません(カントはそれを物自体の世界といいます)。ここから、われらが知ることができるのは現象界だけで、物自体の世界は知ることができないという結論が出てきます。

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