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4月13日(土) [はじめての親鸞(その107)]

 更新が遅くなりました。
 今度は親鸞が弟子に宛てた手紙の中のことばです。「本当の信を得た後は、弥陀や釈迦のような仏たちが空に満ち満ちて、釈迦の教えや弥陀の本願はみな偽りであると言われても、一点の疑いもあってはならないと承ってきました」。これは本当に信じるとはどういうことかを示しています。先ほどは法然上人に騙されても後悔しないとありましたが、今度は弥陀や釈迦自身が「われわれが言ってきたことはみんな嘘だ」と言ったとしても信じるというのです。これはしかし、もう常軌を逸していると言うしかありません。
 親鸞の「信じる」はどうも普通の「信じる」とは違うようです。
 親鸞は「信じる」とは「聞く」ことだと言います。ふと本願が聞こえて、こころに沁みる、これが信じることだと。どんなふうに聞こえるのか。ぼく流に言いますと「そのまま生きていていい」と聞こえるのです。「このまま生きていていいのか」という鉛のような問いを抱えている人に、あるとき思いがけず「そのまま生きていていい」という声が聞こえて、五臓六腑にしみわたる。これが信じるということです。
 金子みすずに「大漁」というよく知られた詩があります。
     朝焼小焼だ   大漁だ   大羽鰮の   大漁だ
     浜は祭りの   ようだけど   海のなかでは   何万の
     鰮のとむらい  するだろう
 ぼくはこの詩を読むと、みすずには大羽鰯の声が聞こえていたように思えて仕方がありません。「そのまま生きていていいのだ」という声が。

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