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のりとまふすことば [『一念多念文意』を読む(その75)]

(2)のりとまふすことば

 ここで取り上げられているのは、『無量寿経』の末尾、いわゆる流通分に出てくる文「其有得聞彼仏名号、歓喜踊躍、乃至一念、当知此人為得大利、則是具足無上功徳」(それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利をうとす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり)です。ここにも第十八願成就文と同じ「乃至一念」とあることから隆寛が引用しているのです(実際、このふたつの文は瓜二つです)。
 親鸞の注釈で注目したいのは、「則是具足無上功徳」の「則」という文字から「法則」ということばを導き出し、それをさらに「自然」へとつなげているところです。法則も自然も、ぼくらがこれらのことばから頭に浮かべるものとはまったく違うということに注意しなければなりません。ぼくらにとって法則、自然ということばは、明治期に英語のlaw、natureの訳語として採用されたものですが、ここで親鸞が法則とか自然と言っているのはそれとは別物です。
 引用文の「則」は「すなわち」という意味ですが、親鸞はそれが「のり」でもあることから、同じく「のり」である「法」と重ねて「法則」としているのです。この法則の意味として大事なのは、それが「もとめざるに」であること、「しらざるに」であること、あるいは「行者のはからひにあらず」ということです。「こちらから」求めてのことではなく、知ったうえでのことでもなく、「向こうから」おのずとそうなっているということ、これが法則であり自然です。
 「本願を信じて一念するに、かならずもとめざるに無上の功徳をえしめ、しらざるに広大の利益をうる」こと、これが法則であり自然ということです。往生という功徳、涅槃という利益をもとめ、それらが得られるであろうと知ったうえで、本願を信じて念仏するのではありません。そうではなく、もとめもしないし、知りもしないのに、気づいてみるとそれらを得ていたということ、これが法則ということ、自然ということです。

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