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『歎異抄』を読む(その206) ブログトップ

12月8日(土) [『歎異抄』を読む(その206)]

 例えば『唯信鈔』はなるほど法然の専修念仏の教えをコンパクトに、しかも和語で分かりやすく説いていまして、『選択本願念仏集』の見事なダイジェストだと評価されるのですが、しかし、突き詰めたところでは、親鸞らしさと相容れないところがあるのです。今そのことに触れることはできません。またそんなお話ができる機会があればと思っています。ともあれ、どうして親鸞は自分で分かりやすい入門書を書かずに、他の人の書いたものを人々に勧めたのだろうという疑問に苦しむのですが、今のところ次のように考えています。
 結局のところ、親鸞という人は「ことばを紡ぐ人」ではなく「ことばを聞く人」だったということです。『教行信証』を読んでいちばん戸惑うのは、そのほとんどが経典や論釈からの引用で成り立っていて、親鸞自身のことばは、その間にわずかに散見されるだけだということです。他の書物からの引用ばかりの本を想像してみてください。その本の独自性はどこにあるのだろうと思ってしまいます。
 しかし親鸞の本領は「こちらから」ことばを書いたり述べたりすることではなく、「向こうから」くることばを聞くことにあるのです。書いたり述べたりすることの独自性ではなく、聞くことの独自性が遺憾なく発揮されているのが『教行信証』という書物です。この本は「聞き書き」の書です。
 同じように、親鸞は『唯信鈔』の「聞き書き」として『唯信鈔文意』を書き、『一念多念分別事』の「聞き書き」として『一念多念文意』を書いたのだと思います。その文字を読むのではなく、文字の背後から聞こえてくる声を聞いているのです。

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