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嘘つきのパラドクス [「『証巻』を読む」その67]

(4)嘘つきのパラドクス

『涅槃経』は「一切の衆生に悉く仏性あり」と説いてくれるありがたい経典ですが、しかし同時に「一切の衆生に悉く煩悩あり」ということを忘れるわけにはいきません。「ほんとうの自分」とは「仏性をもつ自分」であるとともに、「煩悩をもつ自分」であるということです。そして「煩悩をもつほんとうの自分」に気づくことができるのは、「仏性をもつほんとうの自分」がいるからです。もし「仏性をもつほんとうの自分」がいなければ、「煩悩をもつほんとうの自分」に気づくことはありません。「煩悩をもつ自分がほんとうの自分だ」と気づくことができるのは、「仏性をもつ自分がほんとうの自分」であるからです。

「嘘つきのパラドクス」をご存知でしょうか。だれかが「ぼくは嘘つきだ」と言ったとしましょう。この言明が真であるとしますと、「ぼくは嘘つきだ」ということ自体が嘘であることになります。としますと、この言明はナンセンスということで退けられなければならないのでしょうか。しかし「ぼくは嘘つきだ」という呟きが真に迫ってくることも否定できない事実です。こう考えるしかありません、「ぼくは嘘つきだ」という呟きが真に迫ってくるのは、「ほんとうの自分」から「おまえは嘘つきだ」という囁きが聞こえてきて、その声に首をうなだれて「ぼくは嘘つきだ」と呟くときであると。「ぼくは嘘つきだ」という気づきは、「嘘つきのぼく」からは起こらず、「ほんとうのぼく」から気づかされてはじめて起るのです。

これが「ほんとうの自分」としての法蔵菩薩です。法蔵菩薩は十劫の昔にいたのではありません、「いまここ」に「ほんとうの自分」としているのです。「煩悩をもつほんとうの自分」に気づくことができるのは「仏性をもつほんとうの自分」がいるからであり、「仏性をもつほんとうの自分」に気づくことは、取りも直さず、「煩悩をもつほんとうの自分」に気づくことです。


タグ:親鸞を読む
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