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認識論的発想 [生きる意味(その87)]

(18)認識論的発想
 ヨーロッパの近代哲学は、その出発点から「知る」哲学です。F.ベーコンの「知は力なり」はあまりにも有名ですし、デカルトの「われ思う、故にわれあり」も、「知る」ことから「ある」を導いています。
 近代哲学は中世のスコラ哲学に対する疑問からスタートしたのであってみれば、これは当然の成り行きです。スコラ哲学とはキリスト教神学、つまりは神の存在の学に他なりませんから、それに批判の眼を向ける近代哲学は、神の存在について何を言うにせよ、それを「どのようにして知ることができるのか」という問題意識を持つことになります。
 あるものが存在するとはどういうことかを問うのが「存在論」で、あるものをどのようにして知ることができるのかを問うのが「認識論」ですが、近代哲学は認識論としてスタートする宿命にあったのです。
 このように認識論は近代の産物です。カントの哲学がその代表格でしょうが、デカルトがすでにその道を準備しています。デカルトは何か確実なことを見出すためには、自分の中にあるすべての知識を一度総点検しなければならないと考え、それらの知識に少しでも疑わしい点が見られたら容赦なく捨て去ろうと決意しました。
 そのように捨てて捨てつくしてその果てに何かひとつでも残っていれば、それを確実な知識として、そこからすべてを再建できると考えたのです。このやり方を方法的懐疑と言いますが、これも一種の認識論です。認識論は普通、「確実な認識はどのようにして可能か?」と問いますが、彼はそれをネガティブに進めたのです。疑わしい認識を一つひとつ潰していくことによって、確実な認識に到達できると。

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