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善導大士証をこひ [親鸞の和讃に親しむ(その66)]

(6)善導大士証をこひ

善導大師証をこひ 定散二心をひるがへし 貪瞋(とんじん)二河の譬喩をとき 弘願の信心守護せしむ(第69首)

諸仏の証を願いつつ、定散二心ひるがえし、二河白道の譬えにて、弘願の信を勧めらる

善導は『観経』の読み方を「古今楷定(ここんかいじょう、古今の諸師の誤りを正し、新たな規準を定める)」するために諸仏の「証を請う」ています(夢の中で諸仏のお告げを受けることです)。古今の諸師(慧遠(えおん)吉蔵(きちぞう)智顗(ちぎ)ど)は『観経』の中心義を「定散二門(先の第65首で「要門」とされたものです)」にあると見ているのですが、善導はこれを覆して「弘願の信心」こそその要諦であるとするのです。「定散二心をひるがへし…弘願の信心守護せしむ」とあるのはそういうことです。親鸞はこの驚くべき読みを受け、それをさらにおし進めて『教行信証』「化身土巻」において「顕彰隠密(けんしょうおんみつ)」という独自の解釈を提示しています。「顕」とは経文の表面に顕れている義で、「隠」とはその下に隠れている真意のことです。『観経』はその経文の表面を読めば定散二善を説いているように見えますが、実はその下に弘願の信心という真意が隠されているということを示そうとしているのです。

さて善導はその弘願の信心のありようを具体的に明らかにしようと「二河白道の譬え」を説いています。これは『観経疏』のハイライトとも言うべきところで、浄土教の歴史においてはかり知れないほど大きな影響力を後世に及ぼしました(図示されて広がったところは弥陀の来迎図と似ています)。親鸞も『教行信証』「信巻」にこの譬えを細部に至るまで略すことなく引用しています。この譬えでもっとも注目すべきは、前途に水火の二河とその中間の細い白道を見て恐れおののく旅人に、二河の両岸から不思議な声が届くところです。東岸の声は釈迦からで、「きみただ決定してこの道を尋ねて行け」と勧め(発遣(はっけん))、西岸の声は弥陀からで、「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」と呼びます(招喚)。さてこの二つの声は別々にやってくるのではなく、釈迦の発遣の声を通して、その奥から弥陀の招喚の声が聞こえてくると考えるべきでしょう。親鸞の場合、「よきひと」法然の「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」の声を通して、その奥から「ただ念仏して、われにたすけられまゐらすべし」と弥陀の招喚の声が聞こえてきたように。


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