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「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」 [「『正信偈』ふたたび」その24]

(4)「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」

さて次の二句、「五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし」ですが、この「如来如実の言」とは前の二句から明らかなように「弥陀の本願」のことです。われら群生海は釈迦から弥陀の本願を聞かせてもらうことで「ほとけの願い」に遇うことができ、それがわれらの救いになるということです。これまでは、どうして釈迦は釈迦自身の願いを説かずに、弥陀の本願を説くのかを見てきましたが、今度は、どうして弥陀自身が自分の本願を説かずに、釈迦が弥陀の本願を説くのかを考えなければなりません。

この問いは、「ほとけの願い」はわれら群生海に直接届けられるのではなく、釈迦を介して届けられるのはなぜかということに他なりません。

その答えは、「わたしのいのち」は直接「ほとけのいのち」に遇うことができないということです。「わたしのいのち」は「有量のいのち」であるのに対して、「ほとけのいのち」は「無量のいのち」ですから、両者は直に接することができません。「有量のいのち」が接することができるのは「有量のいのち」だけで、「無量のいのち」に接することはできないのです。もし「有量のいのち」が「無量のいのち」に接したとしますと、その「無量のいのち」はもはや「無量のいのち」ではなくなります。「無量」とは、その外部にいかなる「有量」もないということですから。

これは、こちらに「わたしのいのち」があり、あちらに「ほとけのいのち」があるのではなく、「わたしのいのち」はみな「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかに包摂されているということを意味します。すぐ前のところで「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」は不一不異であると言いましたが、それは「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかにあるということです。「わたしのいのち」とは別に、どこかに「ほとけのいのち」があるのではありません。「わたしのいのち」たちがひとつにつながりあっている、そのつながりそのものが「ほとけのいのち」です。ですから「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」なのです。


タグ:親鸞を読む
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