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小慈小悲もなき身にて [親鸞の和讃に親しむ(その113)]

(3)小慈小悲もなき身にて

小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき(第98首)

小慈小悲もなき身にて 有情利益もできはせぬ 如来の願船なかりせば この苦海をばいかがせん

この和讃を読んで頭に浮ぶのは、恵信尼の手紙に記されている出来事です(『恵信尼消息』第3通)。親鸞四十二歳の頃、流罪を赦免されて後、越後から常陸へ向かう途中、「武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫(さぬき)と申すところにて」、何か大災害でもあったのでしょう、おそらくは大勢の死人たちを目の前にして、「げにげにしく三部経を千部よみて、すぞう(衆生)利益のためにとて、よみはじめ」たということがありました。死者の供養のために読経するという僧としての習い性が出たということでしょうが、それにしても三部経を千部読むというのは並や大抵のことではありません。

そんな行動に出たのは「すぞう利益のため」であり、『歎異抄』第5章のことばを借りれば「わがちからにはげむ善」として経典を読誦しようと決意したということですが、親鸞はまもなくそこに潜む虚仮に気づきます。外に賢善精進の相を現じながら、内に虚仮を懐いている自分が目に入ってくるのです。そうして「これはなにごとぞ、自信教人信難中転更難(みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し)とて、みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと思ひかへして」読むのをやめたとあります。

親鸞はわが力で人々を救おうとしている自分に「おまえは何さまであるか」と問いかけているのです。いや、どこかからそのような声が聞こえているのです。そして「みづから信じ」ることも、「人を教えて信ぜしむる」ことも、みな本願力の回向であることをあらためて思い返しているのに違いありません。名号に「なにごとの不足」があって「わがちからにてはげむ善」にたよろうとしているのか、「如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたる」ことができようか、と。


タグ:親鸞を読む
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