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きみ回(かえ)り来たれ [『教行信証』「信巻」を読む(その76)]

(4)きみ回(かえ)り来たれ


さて善導はこの譬えを回向発願心釈の一環として説いているのか、それとも三心全体に関係するものとして説いているのか迷いが生じます。これがおかれている位置からしますと、回向発願心を明らかにするための譬えと取るのが自然ですが、はじめに「信心を守護する」ためにこの譬えを説くと言っていることからしますと、回向発願心だけではなく三心全体に通ずるものとして述べているのかとも思えます。しかし前後の文のつながりから考えますと、やはり回向発願心のための譬えと取るべきでしょう。


といいますのは、すぐ前のところで「解行不同の邪雑の人等ありて、来りてあひ惑乱して、あるひは種々の疑難を説く」ことが問題とされていましたが、この譬えにおいて、白道に一歩踏み出した行人に後ろから群賊らが「きみ回り来たれ。この道険悪なり、過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず」と誘いかけていることが重なるからです。譬えの意味を明かすところで、この群賊(そして悪獣)とは「衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大」を意味すると言われ、さらに「水火の二河」についても「衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩ふ」と言われていますから、これらはみなわれらの煩悩のことを指していることが分かります。すなわちこの譬えは、われらのなかに芽生えた清浄願往生の心すなわち回向発願心が、われらのなかに巣くう貪愛瞋憎の心から誘惑を受けることを言おうとしていると理解することができます。


大事なことは、どれほど貪愛瞋憎の心から「きみ回り来たれ」と誘惑されても、「この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行く」ということです。先回、「解行不同の邪雑の人等ありて、来りてあひ惑乱して、あるひは種々の疑難を説」いても、それに動乱破壊されないのは名号の大地に根差した堅固な信心があるからであることを見てきましたが、この譬えでそのことがより具体的なかたちで分かりやすく述べられています。





タグ:親鸞を読む
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