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6月9日(日) [はじめての親鸞(その163)]

 あの世はあるかもしれないし、ないかもしれない、どちらか分からないと言うべきではないでしょうか。ぼくが親鸞という人を信用するのは、この問題について決して「断定的に語る」ことをしないからです。
 もう一度『歎異抄』の有名なくだりを読んでみましょう。
 「わたし親鸞におきましては、ただ念仏して阿弥陀仏にお救いいただけばよいと法然上人から教えられ、それを信じる以外に取り立てて何もありません。念仏は、本当に浄土に往生できる種でしょうか、あるいは地獄に落ちる業でしょうか、そもそもわたしは知りません。たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に落ちたとしましても、全く後悔はありません」。
 さすがにあの世なんてないかもしれないとは言っていませんが、浄土へ行くのか、はたまた地獄へ行くのか、そんなことは知らないと言います。「念仏すれば、いのち終わった後、浄土へ往生することができる」―これが浄土の教えでしょう。ところが親鸞は、念仏しても浄土へ往生できるか、それとも地獄へ堕ちるのか、そんなことは知らないと言うのです。もっと大胆に言ってしまえば、そんなことはどうでもいいということです。
 これは伝統的な浄土の教えから見れば破天荒な主張ですが、ここに親鸞の新しさがあり、そして森岡氏の疑問に対してひとつの答えが示されています。死後の世界について断定的に語るまいという姿勢がはっきり示されているのです。

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